1993年からヤナセが販売

オペルは、1993年からは輸入車販売最大手のヤナセが本格的な販売を始めた。ヤナセはそれまで独メルセデス・ベンツのほかにフォルクスワーゲン(VW)を輸入販売の柱としていた。しかし、トヨタ自動車と組んで独自の販売網づくりに乗り出したVWと対立し、オペルに乗り換えたのだ。

1995年にフォルクスワーゲン(VW)を追い抜いた

ヤナセの梁瀬次郎会長兼社長(当時)は「フォルクスワーゲン(VW)には絶対に負けるな」とオペル車の販売を強力に展開した。

小型車「ヴィータ」で150万円台という値ごろ感も受け入れられた。オペル車は1995年10月にはVWを抜いて輸入車販売のトップに立った。


メルセデス・ベンツが安いモデルを投入

ヤナセは、利幅が薄いオペルの小型車を積極的に販売した。その理由は、VW車の穴を埋めるだけではなかった。

まず大衆車で顧客を確保して、利幅が厚いベンツなどの高級車に乗り換えさせる戦略を掲げていた。

主力ヴィータが2003年に販売中止

ところが国内メーカー(日本車メーカー)が相次いで安価な小型車を投入した。オペルの主力ヴィータは2003年末に販売中止に追い込まれた。

一方、メルセデス・ベンツは「Aクラス」など比較的安価なモデルを出した。この結果、ヤナセはオペル車に頼らなくても新たな顧客を獲得できるようになった。

GMが独自のオペル販売網

GMが販売強化のために2001年に独自にオペルの販売網を展開した。すると、ヤナセとGMとの関係はぎくしゃくし始めた。

1997年に約200店あったオペルの販売網は、2006年には約80店に縮小した。2005年の販売台数は1800台まで落ち込んだ。

欧州に集中

2005年からはGMの経営不振が深刻になった。GMはオペル車の販路をヨーロッパに絞った。欧州車ブランドとして生き残らせる戦略に転換した。オペル車を売る必要がなくなっていたヤナセも、あっさり日本撤退を受け入れた。


「キャデラック」への乗り換えを促す

GMは、オペル取扱店に対して「キャデラック」と「サーブ」への乗り換えを急ぐよう促した。GMのアジア太平洋部門のアントニオ・ザーラ社長は「オペル車の販売終了後もアフターサービスに万全を尽くす」と話した。

ただ、オペルはあくまで大衆車だった。オペルのオーナーが超高級車のキャデラックに乗り換える可能性は小さかった。まさに、GMのブランド戦略は場当たり的だった。

「サターン」でも失敗

GMは1997年、日本に乗用車「サターン」を投入した。だが、わずか4年で撤退した。「ビュイック」「ポンティアック」なども日本市場に食い込めなかった。

「シボレー」の販売も低迷が続いた。米国市場で日本車は販売台数を伸ばし続けているが、GMはオペル撤退で、日本市場の足場を失いかねない状況になった。


動画

オペル再上陸